気持ちに余裕は無いが、脳みそには余地がある(はず)

思考フィルターの種類は多いほど理解認識を豊かにする。
手持ちの数だけ物事を多角的に見られるんだから。
紐一本、砂粒一つでも、ありとあらゆる見地から眺められる。ましてや現象においてをや。
記憶だったり知識だったり、使う脳みその部位は様々だろうけど、それらがそれぞれ深く広ければ絡まり方も複雑で、さぞかし楽しく、何処で何をしていても飽きるなんて事は無いだろうなと思う。


勿論、ひとつの事を極めて、全てをそのフィルターで見るってのも味わい深いだろうけども。


学校を出て仕事を始めてからは特に経験重視で、“知識より勘”“御託より実践”なんだけど、知識重視の兄を見るに付け、余裕って大事だなと猫のヒゲをつまんだりする。
知識が現実と遊離していた頃はコレクションとして弄んでいたけれど、現実の為に知識が必要になってからは必要な事を覚えるのに手一杯になってしまった。


趣味であったはずの事に仕事が侵食してくると責任が生じ、自己満足してる場合じゃなくなってしまう。他者を納得させるだけの結果を出さなければならない。
逆に言えば、いくら自分が不服だろうが他者がそれで良いと言えば妥協せざるを得ない。
“責任”ってのがダイキライで、自己完結ダイスキだから、意識の切り替えや線引きの兼ね合いに戸惑う。


唯々自分の為だけに何かをする。そんな時間を持とう。
そうすれば、それがいずれ何かの役に…
あ。また擦り寄ってる。
とりあえずMIDIソフトで『まっくら森のうた』と『ちびっ蚊ブーン』を作ろうかな。