コミュニケーションに頼るもの

文字交流が苦手なN氏と言語交流が苦手な自分。
連絡を取る際にどちらかの譲歩が必須となる。
互いの生活パターンの違いから、大半はメールやICQで行っていたが、今回は電話が来た。
マイペースの贅を極めている最近において、電話が鳴るってのは領空侵犯に匹敵する。
「今すぐ私用を打ち切って時間を共有せよ」という指令にも聞こえる。突然の音に弱いから尚更不快になる。
N氏が何故電話が嫌いなのかと問うから、自分のペースで進められないからだと答えた。


会話は相手の感情や状態が目に見える。詮索や考慮が必要だし逃げられない。場合によってはビリビリ来て痛い。声だけにしたって、リアルタイムだから即座の反応を要求される。自分の都合で後回しってのが出来ない。推敲も出来ない。自分は思考も言葉も遅いから、適切な反応をしようと思うと間に合わなくて焦ってしまう。
兄と意思疎通が出来るのは、彼がこちらの発する単語と身体言語を非常に的確に汲み取ってくれるからだし、紡ぎ出そうとする言葉を根気よく待ってくれるからだ。
ナベ氏との会話にストレスを感じないのは、彼の類稀な容認範囲と勘の良さが安心感を生じさせるからだ。


勿論 文字交流だって齟齬は生まれる。表情や態度で伝えた方がすんなりいく場合だって有る。誤解も受け易いし与え易い。
しかし、逃げられるって利点はでかい。
今現在、私的な交流はメールが大半を占めている。(この際、仕事などでの文章連絡の話は脇へ置いておく)
これは保留が効く。最悪の場合無視が出来る(ぉぃぉぃ)。緊急を要する事態が少ないので、問題が起こらないのだ。
それに今のところは深刻な遣り取りをする用事が無いから、多少話の行き違いや理解の食い違いがっても「文字だからな」で諦めが付く。場合によっては言い訳にもなる(こらこら)。


先日テレビを見たら、メールやメッセでコミュニケーションを取る学生さん達が、顔文字や絵文字の無い文章は怒っている様でコワく、不安だと話していた。まぁこれを“行間読み能力の衰退”であると嘆く向きもあろうが、その件に関しては自分の手に余るので触れないでおく。
彼らにとっては“会話”の密度が同等になってきているのかなと思った。文字だろうが言葉だろうが、伝え合う内容に違いは無く、ただその時の利便状態によって使うツールを変えているだけなのかなと。
「遠いから電話」とか、「会えないから手紙」とか、「一緒に居るからお喋り」という世代では無いのかなと。
テレビ電話が普及したら、もっと均一化するのかもしれない。もしくはどれかが特化するかも。


こんな自分が人間相手の仕事をさせてもらえていたのは、対象者が痴呆高齢者だった事も関係していると思う。テンポが近かったのかもしれない。
コミュニケーションの内、言葉に頼るものは5割以下なんじゃないかとさえ感じた。文字に頼ることは殆ど無かったけど。


…。さて。散漫になってきたので今日はここまで。(おいこら)


久しぶりにしっかり抱えてもらって眠った。
とっても気持ちが良かった。ありがとう。
毎日会わないってのに慣れたんだなぁと思う。蓄電機能が高性能になってきたんだな。うん。